午後7時半駅前。焼き肉で有名な街だけに駅前は食欲をそそる肉が焼ける香りが漂っていた。
今日は平日の火曜日。食べ歩く人も少なく、帰宅を急ぐサラリーマンが通り過ぎていく。
ほんの少し前までは僕もそんなサラリーマンの一人だった。ただ毎日を同じように過ごすだけの機械のような日々。刺激を求め夢見ながらも叶わず、通勤電車に揺られ家と会社を行き来する。
クラブでサキに出会ったあの日から僕の頭はサキでいっぱいだった。もう一度会いたい。もっと話したい。
気持ちは高まり収まりが効かず、会って3日と経たない内に誘いのLINEを送った。
『美味しい焼き肉行かない?』
なかなか既読にならないLINE。何度も開いて確かめる。まだ、未読。
会う約束は口約束、しかもクラブでの初対面。警戒して返信しないことも考えられる。
もう会えないのかと思うと辛くて苦しかった。そうか、これが片思いの苦しさだったんだ。
結婚して子供も生まれて、父親をしているうちにいつしか忘れてしまっていた感情。
会いたい。
サキを思う気持ちは心も身体も支配してしまい、LINEを確認する以外何も手に付かなくなっていた。
やっぱり急に誘いすぎたかな。諦めかけたその時、暗い画面に緑のポップアップが浮かんだ。
すぐにスライドする。左手に響くバイブと共にサキのアイコンと短い文章。
いきたい(^o^)/
たった4文字。ただの顔文字。それなのに、顔がニヤけてくる。嬉しさが腹の底から込み上げてきた。
気が変わらない内にと日取りや駅や時間をを決めた。
楽しみ(#^^#)
人は文字だけでこんなにも幸せになれるんだ。
待ち合わせ時間に少し遅れてサキが現れた。クラブの時と同じで細身のパンツ。上は白のニットだった。
『焼き肉なのに白で大丈夫?』
『大丈夫だよ。』僕の心配を他所に笑顔を返す。
『この駅初めて降りたけど、すごく焼き肉のにおいがするね。』
『焼き肉で有名だからね。』
客引きを断り予約していた店に入る。カウンターを予約していたが、混んでいたためにテーブル席に。
先輩に教えてもらった店だが、僕も来るのは初めてだった。
『何飲む?』
『ビール。銘柄何ですか?』店員に尋ねる。
『アサヒです。』
『良かった。じゃあアサヒの瓶ください。』
『僕は生で。瓶の方が良いの?』
『瓶の方が最後まで美味しいの。ビールはアサヒが一番だと思う。プレモルは最悪。』
彼女の好みは特徴的で、優秀な舌を持っていた。おかげで僕はいろんなことを教えてもらった。
今まで気にもしていなかった細かい味の違いを知ることもできた。
そんな味覚の鋭いサキが教えてくれた最初の違いがアサヒの瓶ビールだった。
頼んだ肉を焼きながら会話をする。どことなくクラブの頃より距離を感じる。隣り合わせと対面の違いがあるのかもしれない。アルコールの入り方ももちろん違う。
でも、より素面に近い状態だから具体的な話が出来た。仕事の話とか出身地の話とか。
九州に生まれ海外で幼少期から思春期までを、さらに学生は東京で過ごしたという。
ずっと一つの街で暮らしてきた僕には奇怪で魅力的な冒険物語のように聞こえていた。
僕は自分の話をする以上に、彼女のことがもっと詳しく知りたくなった。
僕には無い物を沢山持っている彼女にさらに惹かれていった。
店はいつしか閉店時間になっていたが、僕たちは飲み足りないし、話したりなかった。
この頃にはもうお互いのよそよそしさも無く、親しい昔ながらの友人のように会話をしていた。
すぐ近くの炉端焼きに移動し、僕らは話し続けた。
言葉はとめどなく溢れ出し、聴く話は新鮮で驚きに満ちていた。
そこには時間も家族も仕事も忘れた、彼女と二人だけの世界があった。